ある日、隣の家の人が、知らない人を連れて訪ねてきます。「今度うちを売ることになりまして」「これ、境界の確認の書類なので、押印だけお願いできますか」。
紙を1枚渡される。図面が付いている。期限を言われることもあります。「来週までに」「決済が決まっているので」。
押していいのか、判断がつかない。かといって断る理由も見当たらない。この記事では、その場で押さずに、何を確認してから決めるかを整理します。
まず、その紙が何なのかを見分ける
「覚書」と呼ばれて出てくる書面は、実は何種類かあります。押すと何が確定するかが違うので、ここを飛ばすと後で困ります。
- 境界確認書(筆界確認書):土地の境界がどこかを、隣どうしで相互に確認する書面。図面上の点を指して「この位置で相違ありません」と確認する
- 越境の覚書:塀や樹木、配管などが境界を越えている事実を確認し、将来建て替えるときに撤去する、といった取り決めを残す書面
- 立会証明書:境界の確認作業に立ち会った、という事実を証明する書面
渡された書面のタイトルを、まず読んでください。「何を確認する印なのか」が書いてあります。 分からなければ、その場で聞いていい質問です。
誰がこの書類を作ったのか
境界の測量と書類の作成は、多くの場合土地家屋調査士が行います。境界の専門家である国家資格者で、測量そのものは資格者としての職責に基づいて正確に行われます。ここを疑う必要はありません。
ただ、押す前に知っておいたほうがいい構造があります。
その調査士に依頼したのは、隣の売主です。 費用を払っているのも隣です。つまり成果物は、隣の土地を売るために必要な書類として作られています。
これは中立性を疑えという話ではありません。目的が「隣の売却を成立させること」に置かれている、という立場の話です。あなたの側の事情を調べることは、その依頼の範囲に入っていません。頼まなければ、入らないままです。
その場で押さない
期限を告げられても、その日に押す必要はありません。押印は一度きりで、押した後で「やっぱり違いました」と戻すことは、実務上かなり難しくなります。
「持ち帰って確認します」と伝えてください。これは不当な要求ではなく、通常の対応です。実務の肌感として、その場で押させようとする流れになったときこそ、いったん止める価値があります。
根拠を確認し、記録を残す
確認する内容は、そう多くありません。
- この境界の位置は、何を根拠に決まっているのか(過去の測量図、境界標、公図、地積測量図)
- 現地のどの点が、図面上のどの点に対応しているのか
- 過去に交わされた書面があるのか、ないのか
そして、やり取りの記録を残してください。 一言断ったうえで録音や録画をする、あるいは説明を受けた内容をその日のうちにメールで送って残す。
これは対立するための準備ではありません。境界の話は、確認から実際の工事や売却まで年単位で時間が空くことがあります。そのとき「あのときこう聞いた」が双方で食い違うと、確認したはずのものがもう一度争点になります。記録は、その再燃を防ぐためのものです。記録の残し方については別の記事で詳しく書いています。
自分の土地の面積を、先に知っておく
ここが、この記事でいちばんお伝えしたい部分です。
自分の土地を測量したことがない。あるいは、境界がどこか自信がない。この状態で押印を求められているなら、確認しておく価値のあることがあります。
隣が測量をしているということは、あなたの土地との境界線も引かれているということです。その線を前提にしたとき、あなたの土地の面積はいくつになるのか。そして、それは登記簿に記載されている面積と一致するのか。
古い土地では、登記簿の面積と実測の面積が一致しないことは珍しくありません。実測のほうが大きいこともあれば、小さいこともあります。
もし小さくなるなら、それはいずれあなたが自分の家を売るときの面積です。価格に直結します。押印した後に知るのと、押印する前に知るのとでは、取れる手が変わります。
だから、可能であれば自分の土地も一緒に測ってもらうことを検討してください。隣の測量に合わせて自分の側の数字も出してもらい、登記簿と突き合わせる。そのうえで、押すかどうかを決める。
費用の負担をどうするかは、話し合いになります。断られることもあります。ただ、聞いてみる価値のある依頼です。理由は2つあります。
①費用が抑えられる
測量は、機材と人が現地に入ることそのものにコストがかかります。隣の測量のために、既にその態勢ができている。そこに乗せてもらうほうが、後日あらためて自分だけで発注するより安く済みます。 境界標の復元や近隣への立会依頼といった段取りも、二度手間になりません。
いずれ自分が売るときには、どのみち測量が必要になることが多い。そのときに一から発注するか、今のうちに一部でも済ませておくか、という選択でもあります。
②押印前が、話し合える唯一のタイミング
こちらのほうが重要です。
境界の位置に検討の余地がある場合、押印する前であれば、その線について話し合うことができます。 根拠となる資料が複数あって解釈が分かれるとき、現地の構造物と図面がずれているとき。こうした場面では、双方が納得できる位置をすり合わせる余地があります。
押印した後は、その線が前提になります。後から「やはり違う」と言える立場ではなくなる。
つまり、自分の側の面積を先に把握しておけば、減少が生じる場合に、それを押印の前に持ち出せます。 相手も売却を進めたい事情があるので、話し合いが成立する余地は現実にあります。逆に、押印してから面積を知っても、交渉の材料は残っていません。
③「5センチ」がいくらに相当するか
感覚をつかむために、計算してみます。
境界線が5センチ内側に入り、その境界の長さが10メートルだったとします。
0.05メートル × 10メートル = 0.5平方メートル。坪に直すと約0.15坪です。
- 坪単価300万円の地域 → 約45万円
- 坪単価500万円の地域 → 約75万円
- 坪単価50万円の地域 → 約7万5千円
これは損失額ではありません。「5センチ」が自分の土地ではいくらに相当するのか、という換算です。境界線が外側に出れば、同じだけ増えます。ご自身の境界の長さと、その地域の坪単価を当てはめてみてください。確認にどれだけの意味があるかが、それで判断できます。
ひとつ注意点があります。売買の方法によって、この差が価格に効くかどうかが変わります。 実測した面積で取引する場合は直接効きますが、登記簿の面積で取引する場合(公簿売買)は、実測との差は価格に反映されません。土地の単価が高い地域ほど実測での取引が選ばれやすく、そのぶん差が金額として表れやすくなります。
実印を求められたら
境界確認書では、認印ではなく実印と印鑑証明書を求められることがあります。
これは、その書面が当事者間の確認にとどまらず、登記の手続きに使われる可能性があることを意味します。分筆の登記などで、添付書類として提出されることがあるためです。
実印を求められたときは、その書類が最終的に何に使われるのかを確認してください。 これも、聞いて構わない質問です。
押さないという選択について
前提として、押印に協力する法律上の義務はありません。
ただし、押さないことにも帰結があります。隣は売却を進められなくなり、関係が悪くなることもある。そして隣地との関係は、あなたが将来自分の家を売るときにも残り続けます。立場が入れ替わって、今度はあなたが押印をお願いする側になる可能性もあります。
押す・押さないの二択で考える必要はありません。「今は判断できないので、この点を確認させてください」も選択肢です。押印を求める側から見た事情と、金銭を求められた場合の考え方については、別の記事で書いています。押す側として金銭を求めることの是非も、そちらで扱っている論点と裏表の関係にあります。
まとめ
やることを並べると、こうなります。
- 渡された書面の種類を確認する(境界確認書/越境の覚書/立会証明書)
- その場で押さず、持ち帰る
- 境界の位置の根拠を聞き、やり取りを記録に残す
- 自分の土地の面積が登記簿と一致するかを確認する。可能なら一緒に測ってもらう
- 実印を求められたら、何に使う書類かを確認する
隣が売ることも、境界を確認したいことも、それ自体は正当な事情です。妨げる必要はありません。
ただ、その書類はあなたの土地の輪郭を確定させるものでもあります。隣の売却のために作られた書類が、あなたの資産の前提にもなる。だから、押す前に自分の側の数字を知っておく。それだけのことです。
期限を告げられても、確認の時間を取ることはできます。決めるのはあなたです。

