契約の日。指定された場所に行くと、売主だけが座っています。
「買主様には、先に押印をいただいております」
そう言われて、用意された書類に署名する。買主の顔を、一度も見ないまま契約が成立します。
これを持ち回り契約といいます。
まず、違法ではありません
最初にはっきりさせておきます。この方式そのものは、適法です。
民法は、契約の成立に特別な形式を求めていません。
(契約の成立と方式)
第五百二十二条 2 契約の成立には、法令に特別の定めがある場合を除き、書面の作成その他の方式を具備することを要しない。
同じ場所に集まらなければ契約できない、という決まりはありません。
そして、持ち回りにする理由は実際にあります。
- どちらかが遠方に住んでいる
- 仕事の都合で、同じ日時に集まれない
- 体調や年齢の事情で、外出が難しい
- 相続人が複数いて、全員が一堂に会せない
やむを得ない場面は、たしかにあります。 持ち回りを提案されたこと自体を、疑う必要はありません。
ただし、失われるものがあります
同席しないということは、そこで行われるはずだったことが、行われないということです。
①買主が誰なのか、自分の目で見ていない
どんな人が買うのか。何のために買うのか。売主は、相手を知らないまま引き渡すことになります。
長く住んだ家であれば、そこに関心を持つ方も多いはずです。
②条件を突き合わせる機会がない
設備をどうするか、引渡しの時期はいつか、残していくものは何か。同じ場にいれば、その場で確認できます。
持ち回りでは、すべてが仲介会社を経由します。伝言が一往復するたびに、ずれる余地が生まれます。
③その場で質問できない
契約書を読んで分からないところがあっても、相手に聞くことができません。
仲介会社の担当者には聞けますが、買主が何を考えていたのかは、担当者を通した話になります。
本人確認を、誰がしているか
ここが、いちばん大事なところです。
同席していれば、当事者は互いの顔を見ます。同席しなければ、その確認は仲介会社に委ねられます。
不動産取引では、なりすましによる事件が起きることがあります。所有者本人が表に出てこない構造のときに、それは起こります。
報道された事例のなかには、持ち回りの形が使われていたとされるものもあります。持ち回りだから起きる、という話ではありません。 ただ、本人が出てこなくても進む方式であることは事実です。
売主の側から見れば、逆も言えます。買主が本当にその人なのか、資力があるのか。自分では確かめていません。
だから、聞いてください
「買主様の本人確認は、どのように行われましたか」
不動産会社は、取引にあたって本人確認を行います。何をどう確認したのかを聞くことは、おかしな質問ではありません。
答えられて当然のことです。そして、この質問をしたという事実が残ります。
手付金は、どう受け取るか
持ち回りで、いちばん見えにくくなるのがここです。
同席していれば、手付金の授受はその場で行われます。目の前で渡され、領収書を書きます。
持ち回りでは、そうなりません。誰かが預かって、運ぶことになります。
ですから、契約の前に決めておいてください。
- 現金ではなく、振込にできないか——記録が残ります
- 振込先は、売主本人の口座か——仲介会社が預かる場合は、その理由と時期を聞く
- いつ着金するか——契約日か、後日か
- 領収書は誰が誰に出すか
現金が悪いわけではありません。 ただ、持ち回りでは現金が人の手を渡っていきます。振込なら、動きがそのまま記録になります。
手付金そのものの考え方は、買付証明書を受け取ったらにまとめています。
署名する前に、読む時間をもらう
持ち回りの場は、たいてい短時間です。担当者が書類を持って来て、押すところを示して、帰っていきます。
その場で読み切れる量ではありません。
ですから、こう伝えてください。
「契約書と重要事項説明書を、事前にいただけますか。目を通してから署名したいので」
断られる理由がありません。そして、事前に渡せない事情があるなら、それ自体を聞く価値があります。
契約書のどこを見るかは、こちらの記事にまとめました。書面全体の点検は5つの書面の記事にあります。
読む時間は、権利ではありません
ひとつ正直に書いておきます。
「事前に書類をもらう」ことを定めた規定は、売主については存在しません。 重要事項説明は買主に対する手続きですし、売買契約書についても、宅地建物取引士が売主に説明しなければならないという定めはありません。
つまり、これは権利として求めるものではなく、お願いとして伝えるものです。
だからこそ、断られたときの意味が分かりやすい。応じてもらえるかどうかで、その会社が売主をどこに置いているかが見えます。
同席したい、と言ってもいい
ここを知らない方が多い。
持ち回りを提案されても、同席を希望することはできます。
「日程を合わせたいので、買主様とご一緒できる日はありませんか」。この一言で足ります。
相手に事情があれば、説明されるはずです。遠方にお住まいだから、お仕事の都合で。納得できる理由なら、それで構いません。
問題は、理由を説明せずに「そういうものです」と返ってくる場合です。
持ち回りは「そういうもの」ではありません。事情があるから選ぶ方式です。 事情が示されないなら、なぜそうするのかを聞いてください。
売主の側から持ち回りを希望する場合
逆のこともあります。売主のほうに事情があって、同席が難しい場合です。
遠方に住んでいる、介護や仕事で動けない、相続した家で相続人が各地にいる。これは何もおかしくありません。
ただし、そのときも同じことが起きます。買主を見ないのは、こちらの都合でもそうです。
ですから、同じ5つを確認してください。持ち回りを選んだのが自分であっても、確認が要らなくなるわけではありません。
相続で複数人が売主になる場合は、もうひとつ加わります。全員が同じ内容の書類に署名しているかどうか。 誰か一人だけが説明を受けて、他の人は押すだけ、という形になりやすい場面です。
持ち回りになったら、確認する5つ
- なぜ持ち回りなのか——理由を聞く
- 買主の本人確認はどう行ったか——何を見て確認したか
- 手付金はどう動くか——現金か振込か、誰の口座か、いつか
- 書類を事前に読めるか——契約書と重要事項説明書
- 宅地建物取引士から説明を受けられるか——売主に説明義務はありませんが、求めることはできます
5つとも、やり取りはメールで残してください(記録の残し方)。持ち回りでは対面の記憶が残らないぶん、文字の記録が効きます。
そして、契約する相手の会社そのものについては、行政処分歴を調べる方法があります。無料で、その場でできます。
引渡しの日も、同じことが起きます
契約が持ち回りなら、引渡しの日も同席しない形になることがあります。
決済は金融機関で行われ、司法書士が登記の書類を確認します。ここは本人確認が厳格に行われる場面ですが、それでも、買主と顔を合わせないまま終わることがあります。
鍵を誰に渡すのか。残った設備の説明を誰にするのか。先に決めておいてください。
まとめ
- 持ち回り契約は違法ではない。 契約の成立に方式は要らない(民法第522条第2項)。遠方・多忙・体調など、正当な理由もある
- ただし失われるものがある——買主を見ていない、条件を突き合わせていない、その場で聞けない
- 本人確認は仲介会社に委ねられる。 「どのように確認しましたか」と聞いてよい
- 手付金は現金より振込。 持ち回りでは現金が人の手を渡る。振込なら動きが記録になる
- 書類は事前にもらって読む。 その場で読み切れる量ではない
- 同席を希望してよい。 理由を説明されるなら納得できる。「そういうものです」で返ってくるなら、聞き直す
- 確認したことはメールで残す。対面の記憶が残らないぶん、文字が効く
持ち回りを提案されたからといって、相手を疑う必要はありません。実際、事情があって選ばれることのほうが多い方式です。
ただ、同席していれば自然に確認できたことが、そのままでは確認されずに終わります。
何が省かれているのかを知って、そのぶんを自分で埋める。それだけで足ります。 決めるのは、売主自身です。

